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【注意】

すみません!
タイトルと挿絵は、単なる冗談で、中身は胸糞が悪くなるかも知れない
って種類の告白日記(?)です。





クリックしてね♪少し大きくなります。

      ( 初めてDVDから切り取ってみたら、これだけ縮小した
      JPGですらこのクオリティ! ・・・ びっくり記念に載せて
      みました。
      因みに、それ違法行為だし、そもそも市販のディスクには、
      そう出来ない処置がしてあります。
      q=(_Δ_)=p 逆さイエーイ♪(爆!) )


人間の 「 笑う 」 という行動に関して、わたしの感情は常に複雑だ。
わたし自身は殆ど笑ったことはない。
そんな馬鹿な ・・・ と思われるかも知れないが、元々笑う習慣が無かった
のだから、珍しいと思われようが、何だろうが、「 それが事実だ 」 としか
言いようがない。

別に全てが面白くも可笑しくもないとか、そういうことではない。
面白いことも可笑しいこともあるし、楽しい事だって、まぁ、たまにはある。
それが証拠に、わたしの文章には、「 面白い 」 という言葉の代わりと
しての、「 笑った 」 「 笑っちゃうよね!」 等々の表現が度々登場する。
言葉としては普通に使ってもいるし、笑いの感情も持ち合わせているの
である。

それでも実際のわたしは、笑わない。
笑えない ・・・ が正しいのかな?
だって、人がわたしに 「 笑い 」 を期待する時のわたしは、いつだって
死んでも笑いたくはない心境でいるし、逆にわたしが笑いたいと思うとき
というのは、そういうことで笑うことは世間が絶対許さないという時ばかりだ。
このギャップで、わたしは今だに笑うことが出来ない。


子供時代には、笑いははっきりとした 「 禁止事項 」 であった。
父は、自分が全く働かずにずっと家の中で過ごしていたことを、病気の
所為にしていた。
しかし、実際には自宅に引き篭もっていなければならないような病気も
患ってはおらず、医者にも通ったりしてはいなかったのである。
それでも父は、あくまで病人であり、徹底して家族の気遣いを受けねば
ならぬ立場だと思い詰めていた。
そのため、笑い声が上がると、「 病人がいて、心配事のある家に笑いが
ある訳はない。」 ( ← これ自体既に間違っているが。 ) と考え、それを、
「 自分が病気であることを疑っているか、病気であっても気遣わなくて
良いと馬鹿にし出したのではないだろうか?」 と悪く勘ぐって疑心暗鬼に
陥ることが多かった。
笑い声を憎むかのように毛嫌いして暮らし、中でも 「 一家の中で一番
身分の低い、一銭も稼がない子供が笑うのは我慢ならない。」 とは、
日頃から口に出して言っていた。

ゆえに、家の中では、笑いは禁止。
こういう環境にいても、人生の途中まで普通に笑いを取り入れて生活
してきた母と祖母は、出掛けてゆくと、外ではちゃんと笑って人とも接し
ていたようだが、わたしにだけは、それが出来なかった。
笑う習慣が全く無く、たとえ、珍しく何か良いことがあって、面白いとか
楽しいと感じていたとしても、中々笑いには繋がらなかった。
笑うと自分が叱られるだけでなく、また父が怒りだして家が大揉めする
と、常に思い詰めていた。

しかし、この時点では、「 笑い 」 を嫌う理由は何も無かった。
寧ろ、「 笑い 」 、中でも 「 微笑み 」 という表情は、見ているだけで気持ち
が和むものだと感じていたし、そう出来ることへの憧れを持ってもいた。
いつの日か父の手を離れたら、自分で微笑みのある生活を掴み取りたい
と、真剣に考えてもいたように記憶している ・・・ 。


・・・ なぁ~んてね!
そんなのは、まだ世間のことを何にも知らない、阿呆な子供の考えで
あって、社会に出てしまえば、そんな理想も理屈も、一切通用する訳
など無かった。

初めて働いたのが、12の年。通常の中学の1年生に当たる。
戦前の若年労働者虐待の悪夢の記憶と反省が、寧ろ現在より強かった
時代で、社会全体が子供の労働に対して神経質であった。
わたしの場合、学校に籍だけを残していて、所謂る 「 未就学児童 」 では
なかったので、わざわざ通えてもいない学校の許可も取りに行かされた。
まぁそういう手続きを踏ませるくらいだから、雇い主はちゃんとした人物で、
後で考えたら、労働基準法を護っていたのも、この時働いていた印刷
工場だけなら、残業手当を受け取ったのもこの工場でだけ ・・・ という、
お粗末な結果だったのだけれど!

そうは言っても、12・13の年の子供や、集団就職の中卒者ばかりを
好んで受け入れている場所でもあるわけで、内容は自(おの)ずと知れ
ていた。
一時はそんなところで働いていても、18を越えたら、読み書きを覚えたら、
・・・ と、皆、何かを切っ掛けに少しでも有利になると、嬉しそうにそこを
離れて行き、その分、残された者が自分達が異様な環境にうち捨てられ
ているような気になって、益々荒(すさ)んでゆくといったことを繰り返し
ていた。

名目上、義務教育だけを終えてから来阪していることにはなっていても、
事実上はずっと家業 ( 専ら農業 ) に従事していて、年齢で学業を終えた
と見做されて卒業をしただけという者が大半で、識字率99.9%である
はずの日本に居ながら、周り中が文盲という、凄まじい環境であった。

「 人間金じゃない 」 なんて、金を手に入れても尚且つ卑しい奴がいると
いう意味でしかなく、その逆は皆無と言わないまでも、通常は成立しない。
困窮していれば卑しい考え方しか出来ないと見る方が余程現実的だろう。
わたしの場合、反復練習とか暗記の努力が要らないので、読み書きにも
不自由は無かったし、試験だけ受けに登校すれば進級の可否を問題に
されないで済むだけの成績は出せた。( ことのついでに、同じやり方で、
高校進学と大学進学も果たしているし、大学時代は仕事の方を夜間に
回したので、本当に通学し受講していた。)
しかし、家というものの後ろ盾が無い 「 女 」 を、世間全般ならともかく、
こんな環境にいる連中がまともに見たりは、絶対しないものだ。

その場の皆が、自分が不利な立場に取り残されていることを敏感に感じ
取っており、その寂しさを何処かで紛らわせたがっていた。
人間は追い詰められると必ず、何とか憂さ晴らしをしよう、損を取り戻そう
と企む動物なのだと今でも思う ・・・ 。

付け込めるものには何にだって付け込んでくる ・・・ そういう集団の中で、
女性で、家族に庇われている形跡が無く、その時点ではまだ父の監視下
にあるため、着替えもろくすっぽ出来ないで、毎日同じ安物の洋服を着て
現れる奴に、そんな彼らがどうやって接したかは、誰にだって推測くらい
付くだろうし、つまりは、全くその通りだった。

特に、男性の場合、家柄のようなバックボーンは問われにくい代わりに、
本人の学歴が差し障りになっていることが多いため、自分が絶対的に
下と見下している女性が、何か自分の知らないことを知っているという
ことには、非常に神経質になっていることが多かった。
先に予防線を張っておく者も少なくなく、わたしも最初に出会って、ろくに
言葉も交わしていないうちから、「 そこのアホ!」 だの、「 ぼけ!」 だのと
呼ばれ続けていたが、呼び方の酷さなんていうのは、彼らのすることの
中では、多分、一番マシな方の振る舞いであったと思う。

年月の経過と共に、わたしも段々に大人になっていったわけだが、それに
比例するように、「 馬鹿呼ばわり 」 が、単なる言葉の問題ではなくなって
き始めていた。
自分達でそう決めたはずの、「 こいつは馬鹿に生まれ付いているから、
何も覚えられないし、考えられない 」 という前提から、色々と有難くも
無い推測が派生していって、その勝手な推測が暫くすると事実として
取り沙汰されるようになり、そこから更なる悲惨な推測を押し付けられる
という悪循環に陥っていった。

仄めかしばかりでは退屈だろうから、はっきり言ってしまうと、「 馬鹿で
ものが覚えられないそうだ 」 が、あるとき 「 普通の仕事には就けない 」
に変わり、さらに誰かが、「 結局パンパンになるんだ 」 と言い出したが
最後、それが事実であるかのように取り沙汰されて、「 では、俺らにも
やらせろよ!」 という台詞にまでなっていった。
着ているものとか風体を見ていれば、言われても仕方の無い一面も
あったし、ニコリともしない表情では、憎しみから、そうは思っていない者
にまでも、そういう台詞を吐かせてしまうという要素もあったのだろう
けれど ・・・ 。

それにしても、彼ら自身の家の背景も、わたしと似たり寄ったりなら、
着ているものだって、もっと貧しい者もいたり、貧農の口減らしで大阪に
やられた身の上で、笑わない・口すらきかない点でも、こちらとどっこい
どっこいの者も決して少なくはなかった時代と、なかった場所である。
それでも男性でありさえすれば、そういう評価には晒されないですむのが
羨ましく思えたものだった。

そして、ここまで 「 そんな気は無い。そういう稼ぎ方を自分に許している
のなら、そもそもこんな場所に居て、こんなことを言われていない。」 と
はっきり否定しても、そんな主張を物ともせず、わたしよりわたしの本心が
良く分かっているという理由でその言い立てを続ける男性の多さと、そちら
を信じるという周囲の言い草に呆れ返った。


そんな中で、わたしは若くて楽しかるべき時期を過ごし、結婚もした。
全てが薄暗く、苦い思い出ばかりだったが、笑いということにかけては、
特に陰惨な思い出が多く残った。
「 笑い 」 だけが、特別に悲惨な思い出になり易いのは、通常の概念で、
「 笑い 」 が、無条件に良いことだとされており、笑いさえ薦めていれば、
内容が何であれ、良い行いだと勘違いされて定着しているからだ。

「 あんたは無愛想だ、笑いなさい 」 とは、良く言われたし、当然の感想
であったと思う。
気に入らなかったのは、わたしが笑っても良いとされる場面と、されない
場面の振り分けについての暗黙の取り決めの方である。

ここまで延々綴って来た、周囲が抱える薄暗い事情が、笑いの勧めの
中には全部盛り込まれてしまっていた。
自分の知らないことを相手が知っているとは認めず、馬鹿と決めたら
徹底して、思考能力も感情も持たない動物としてしか扱わないわけだ
から、本を読んだの、映画を見て筋を追った、意味を理解した、だのは
当然認められる筈も無く、以ての外であった。

この同じ理由で、その場に人との交流を求めず、あまり人とは話さずに
暮らして来たわたしには、当時、本が良い友達になっていたのだったが、
周囲はそれを許さなかった。
読んでいるとさえ認められたことがなく、常に、「 本を読む振りなんか
さらすなっ!」 と、怒鳴りつけられ、読んでいるところを見られれば、本は
あとで必ずゴミ箱に叩き込まれた。
拾い上げてまた読みださないように、水を掛けてあることも多かった。

TVや映画の話も厳禁で、タイトルを口にしただけで、「分かりもせん
もんを見るな!」 と、嫌悪感を露わにして罵って来る。
実態に関係無く、相手がその中に少しでも文化の香りを感じるもの全て
が鑑賞禁止の対象であった。
一方で、吉本興業の面々が登場するような番組なら、見ることを許された
・・・ というより、「 ちゃんと見て、勉強しとるか?」 と、しょっちゅうチェックを
入れられるのだが、こちらの方は自分が大の苦手で、見て多少は賢く
なれと執拗に言われていたにも関わらず、吐き気がして見ることが出来
なかった。

いずれにせよ、これこれのことでは笑うなという禁止の方は、罪が軽い。
彼らの前で、何を楽しむところも見せなければ、それで済むことである。
本当の大問題は、「笑え!」 の方だった。

凡そ人と生まれ付いたからには、こういう感情を自分の感情とは言われ
たくはない、こういう動作を自分の動作とは追認したくはない ・・・ そういう
最低限の願いと、人としての尊厳を突き崩すためにこそ、「 笑え 」 の
命令はあったと思う。

自分がどれほどの馬鹿に生まれついて、どれほど何も知らなくて、どの
くらい不自然で嫌悪感を催すような行動ばかりを取るか ・・・ が、実際の
自分の感情・能力・行動に一切関係無いままに、適当にでっち上げられ
他人の口から、語られた。
どれも、陰惨でむごい言い草ばかりだった。
しかし、わたしが自身の 「 大人の女 」 の証明のために、笑って見せなけ
ればならなかったのが、正にこの部分に対してであった!
内容は、有りもしない不特定多数の異性との肉体関係から、彼らが知る訳
の無い、生殖器の色・形についての非難・揶揄までだ、と言えば察しがつく
だろうか?

わたしには、笑えなかった。
そして、そのことを世間は決して許さなかった。
女性が、相手への礼儀として当然に笑うべきシーンを無視していると
いう非難がどの時代にも常に付き纏った。
その度に、「 気取っている 」 「 賢く見せたがっている 」 と罵られ、嘘吐き
だともなじられたが、それでも笑えなかった。
一見、温厚に諭してくれているかのような台詞もあって、「 大人になり
なさい 」 「 いつまでも学生気分のまま甘えていては駄目だ 」 とも説いた
が、こんなものを大人を示す証拠として、人の成熟度を計ることにも、
大いに不満があった。

勤務先は、大学入学時にも、卒業後にも何度か変えていたし、その時々
の資格で採用されていたわけだから、それなりに環境は良くなっていた
はずであった。
少なくとも、最後の方には、もう集団就職者も文盲の者も居なかった。

ただし ・・・ 逆に世の中はバブル全盛期に突入しており、海外買春ツアー
の真っ盛りでもあった時期を迎えていた。
この辺りの事情は、これまで何度か書いてきたが、要するに、大学を出た
男性にも、女性と公衆便所の区別が付けられなくなり始めた事始めの
時代であった。
金さえ払えば女ってモノと同じだ。ちゃんと買えるじゃないか!
男達がそういう認識に目覚め始めた時代に、わたしは、やはり両親との
折り合いの都合で、洗い替えとしてしか洋服を変えて来ない通勤の仕方
を続けていた。

ひと月の間に、同じ洋服を2度着てゆくと、「 君、それは、ちょっと前に
着ていたのと同じ奴だよね?」 と、上司から注意を受けるという時代
である。
さすがに、わたしにそういった水準の忠告を与える者はいなかったが、
その代わりに、自分達が踏みにじっては、「 良いことをした!」 と自慢して
いた、東南アジアの女性と同じ水準だと見做された。
( ま、同じなのは正しいんだけれど。ただ、彼らの意識の中での彼女達
には、当の彼女達をも含めて、誰もそうは見做されない方が良い!)

また、女性だけは常にマトモであったなどと言う気も、さらさらない。
産経新聞が何と言おうと、女性の方が一回り華奢にひ弱く出来ていて、
実力行使に不利が有る以上、立場は常に苦しい。
環境が劣悪であれば、環境に押し潰され、物資に恵まれる時代が来ても
道徳的に荒廃してしまえば、その荒廃に真っ先に押し潰される。

先述の如き事情で、職場を変えていたにも関わらず、いつも同じように
下卑た揶揄にばかり晒されてきた中で、女性に庇われたことは、ただの
一度も無かったが、実は男性には何度か助け舟を出してもらった経験は
あった。
そういう言い草を好まない男性というものもいて、そういう男性は、はっきり
と、「 ボクはそう思わない 」 と口に出すものである。
話の内容から考えて、到底一人たりとも、それで満足するとは信じ難い
女性からの反論は聞かず終いだったのだが、男性からは稀に反論が
あったのは確かだ。
逆らえる力の、有ると無いの差であったろう。

一番情けなかったのは、先輩女性や同性の同僚の中に、「 笑って
そういうことを受け止められることが、大人の好い女の条件だ 」 という
男性陣の方便を、そのまま自分の誇りにしているかのような者が少な
からず存在していたということ。
この人たちは、例えば、わたしが○○○で餃子を作っているのだろう、と
からかわれ、巧く対処できないでいる時に、「 学生気分が抜けないって
嫌やねえ ・・・ 」 と男性に同情しながら登場する。
そして、自らがどのくらい、男性の定義するところの 「 真の知性 」 を持ち
合わせた賢い女かを示すべく、大声でカラカラと笑いながら喚くのである。
「 そやそや、餃子はあそこで作るもんや!あたしは上手やでぇ!
100個くらい、ぽんぽんぽん~のぽん!って作ってまう。
今度食べさしたるさかいな!」 ( ← この例は実際にあったもの。)

なんだかなぁ! ・・・ その時の 「 真の知性に裏打ちされた女性の台詞 」
って奴が、いつまでも耳に残ってしまって、中華料理大好き人間なのだが、
未だに餃子だけが食べられないままなのである。
ついでに、女が世間に歓迎される笑いを持つことも、その期間に今度こそ
きっぱり諦めを着けてしまった。
もう、先行き何時の日にか ・・・ も思わないことにした。
そして、現在に至るまで、そのままでいる。


最初の方に書いたように、「 笑い 」 だけが、特別に悲惨な思い出になり
易いのは、通常の概念で、「 笑い 」 が、無条件に良いことだとされて
おり、笑いさえ薦めていれば、内容が何であれ、良い行いだと勘違い
されて定着しているからだ。

それがそう思われた理由は、人が笑うことが、本来は当人が 「 楽しい 」
とか、「 快い 」 と感じる環境にいることと、直結していたからに他ならない。
しかし現在、笑いは 「 人がどれくらい笑えない条件でいる時にも、笑えて
自分に対する服従を示せるか 」 を試す踏み絵になり過ぎている。
支配するのどうのという立場に無いはずの女性までもが、これに慣れて、
「 頑張って笑顔を作らなきゃ!」 を連呼する。
根性モノのドラマに至っては、どれほど不幸せな時に笑顔で居られるかの
勝負になってしまっているという体たらくだ。

自分を律するためにとか、負けを相手に見せて喜ばせてやるもんか!
とでも言うのなら、まだ理解できもするが、自分ではない他者に強要する
笑いって、一体全体何なのだろう?と何時も思う。
だから笑いには思い出が悪いのである。


恵まれて生まれて来る女性については、わたしは知らない。
ただ、自分のような生まれ付きで、こういう道程を辿ってしまったら、
笑いは、最後まで引き攣ってしまう。
笑いに不満を持ったというだけのことではなく、この手の笑いだけを強要
され、自身の理性が喚起する自然な感情が、他人の恣意で禁止され
続ける人生に、この先も律儀に付き合わねばならない理由など、本当に
有るのだろうか? ・・・ と、疑ってもいる。
もう充分に我慢に我慢を重ねて生きて来た。
そろそろ解放されたって、罰も当たらないのではないだろうか?
ま、今更、天罰が怖いのどうのという話でもないんだけれど。
もともと、神様も悪魔もクソ食らえって気分でいたのだし。

多分、笑いとは一生縁が無いように生まれ付いているのだと思っている。
そうね、ひょっとして、気が遠くなるような未来にでも、迎合や服従の意味
で笑わなくて良い男性にでも生まれ直せたら、その時には改めて笑顔に
なることも、考えてみようか。


On the other hand, I always become fond of beaming face about others. 
Why ...?
It's funny.
I'm not sure I know the answer.
 
 
 
 
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新着情報
( このブログ以外の場所に置いており、下欄の 「 最新記事 」 に載らない内容です )

「生存者」 ~ 蛙灰皿秘話 ~
 2008/11/11

「憐情」
 2008/10/16

「行くな!」君去りし後裏返し編
 2008/09/21

「風車」
 2008/09/04

「贈物」
 2008/08/27


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 エッセイ、その他の雑文を

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